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介護

あっという間に3回忌

母と同じような歳の人をみかけた時、母が好きだった花をみた時、

いろんな場面で亡き母を思い出します。

私の母は67歳の時にくも膜下出血で倒れ、重度障害者になり、

11年後の78歳の時、再び出来た動脈瘤が破れて亡くなりました。

介護は母との大切な時間

父、妹弟と

試行錯誤しながら母を在宅介護した11年間はキレイな思い出はばかりではありません。

兄弟喧嘩、親子喧嘩、たくさんしました。

特に仕事を理由に介護を避けようとする弟とはよく言い合いになりました。

けれど私も妹も仕事をしながら子育て、家事、いっぱいいっぱいだったのは同じです。

実は弟とはいまでも少しわだかまりが消えていないような気がします。

けれど私は週に1、2度程度の介護でしたが、

母のオムツをかえる、食事を作る、母と病院へ行く、

一緒に散歩する(母と手をつないで近所をゆっくり)・・

今思えば母と過ごせたかけがえのない時間だったのかな、と思っています。

母は意識が戻らなかった方が幸せだったかもしれないと思うけれど

私たちは母が生きていてくれて良かったけれど、

母自身はあのまま意識が戻らずに亡くなっていた方が、幸せだったかもしれません。

なぜなら話し好きだった母は11年間も思うようにしゃべれず、

(「あー。」とか「痛い。」とかは言いました。)

家事もできなくなり、

ほとんどの時間をベッドで過ごすだけの日々。

もし母の障害が体の麻痺だけで、

脳はしっかりしており、しゃべる事も出来ていたら

こうしたい、ああしたい、と言うこともできたでしょう。

けれど母は合併症の水頭症による認知症のような症状と

言語障害によって言葉を失い会話ができず、

笑顔もなくなりました。。

いつも何かしてあげたい性格の母が

子供たちや自分の夫にオムツを変えてもらって、ベッドに寝ているだけの毎日です。

母はくも膜下出血後手術して目が覚めてすぐ、死にたい、と思ったのでしょう。

(まだ水頭症を併発する前で、少しまともでした)

病院の屋上で飛び降りようとしました。

運よく看護師さんが見つけてくれたので事無き事に終わりましたが、

それからは目が離せないというので、

夜中は母がベッドから降りたらナースコールが反応するというマットをおいてもらってしのぎました。

病院にもほぼ毎日、夜中になりますが、妹弟と交代で行きました。

在宅介護を選んだ父

退院した母が自宅に帰ってからの高齢の父との生活が

どうなることになるかと不安でいっぱいでした。

(父が一番不安がっていました)

けれどこの母の介護生活11年間で父は自立する力ができ、

私たち子供たちは11年間の通い介護のおかげで

母に触れ合った日々がたくさん出来たので、

母の死をきちんと受け入れる事が出来たのでは、と思っています。

もちろん母が要介護5になったときは、

老人ホームの入居も考えました。

けれど、一緒に暮らす父がそれを拒否したのです。

きっと母が倒れてすぐは、父も不安で介護なんて無理だと思っていたと思います。

けれど、

平日はデイサービス、ショートステイの利用、

そして週に一度は子供たちがやって来る生活。

介護の大変さより母と一緒に暮らす生活の方が、

父自身が寂しくないと思い在宅介護を選んだのでは、と思います。

母の最期の日はいつものように、

自宅から父が母をデイサービスに送り出しました。

そして、デイサービスで母は倒れてそのまま亡くなりました。

前の晩は二人でいつものように宅配弁当を分け合って食べたそうです。

その日からお葬式、納骨まであっという間でした。

この9月にはもう3回忌です。

母との記憶をゆっくり思い出しながら過ごしたいと思います。

母と行った公園のダリア🌸

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